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神社・仏閣等

15.坂本龍馬像 所在地:東大井2-25-22(旧土佐高知藩山内家抱屋敷跡地付近)

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嘉永6年(1853)3月17日、土佐藩の郷士だった坂本龍馬は 19歳で土佐藩から1年余の剣術修行を許され、溝渕広之亟と(溝口は先行し江戸にいた可能性もある)土佐を立ち江戸へ向かった。当時の一般的な江戸修業は、忠実な藩士育成を目的としていた。築地の土佐藩中屋敷に住み、千葉周作の実弟千葉定吉の道場で北辰一刀流を修業するともに、儒者・兵学者 佐久間象山の塾に入門し、西洋砲術を学んだことが、塾の「及門録」に記されている。龍馬の江戸到着から二ヶ月後の6月6日、ペリーが率いるアメリカ東インド艦隊が江戸湾に侵入し、同日、幕府は江戸湾沿いに藩邸を持つ諸藩に、海防の動員を命じ、土佐藩も品川下屋敷に江戸駐在藩士を待機させた。
坂本龍馬は多数の書簡を残しているが、3ヶ月後の嘉永6年9月23日、父八平宛ての初めての手紙に「…異国船処々に来り候由候へば、軍(いくさ)も近き内と奉存候、其節は異国の首を打取り、帰国可仕候、かしく」と記している。文面からだけでは龍馬が品川下屋敷に召集されたかどうか不明であるが、召集された可能性は高い。これを記念して、有志により平成16年6月高知訪問団が結成され高知を訪問、高知市役所で市長はじめ龍馬会の方々と面談し、FRP製坂本龍馬像の寄贈を受け、立会川横公園内に設置された。平成21年10月品川龍馬会が発足、平成22年11月京浜ロータリークラブがFRPに代わるブロンズ製龍馬像を建立し、FRP製は品川区立浜川中学校に寄贈された。

16.浜川砲台 所在地:東大井2-26-18(旧土佐高知藩山内家抱屋敷跡地付近)

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現存しないペリー艦隊退去後の嘉永6年(1853)11月13日、土佐藩は荷上場として使用していた、鮫洲抱屋敷外海岸に砲台を築造する願いを幕府に提出した。「佐々木高行日記」に「品川大井村抱邸外海岸ニ砲台ヲ築カン事ヲ幕府ニ請フ」とある。砲台の総面積は当初は 869 坪、明治時代の測量図によると 2378 坪である。この場所に嘉永7年(1854)1月21日、寺田左右馬指揮の下、後に坂本龍馬の師匠となる徳弘孝蔵以下足軽 70 名で砲台を築造した。砲台は当初は仮設状態であったが、徐々に拡大整備されて、安政2年(1855)当時の図面が嘉永7年(1854)2月23日に江戸へ出奔した森正名の「日記」に記されている。
砲台は高さ6尺、幅37-38間で、砲門は「6貫目ホーイッスル砲1門、1貫目ホーイッスル砲2門、鉄製5貫目砲5門」の8門である。この事実に因み、品川龍馬会は平成25年より、区民から厚志を募り銃砲研究家峯田元治氏の復元図に基づく6貫目ホーイッスル砲実大レプリカ制作を企画し、品川区の協力のもと、平成27年11月しながわ花海道脇児童公園内に復元模型を設置した。その後、レプリカは品川区に寄贈され公園課が管理所管し冠木門などを整備し、現在に至っている。

17.鮫洲八幡 所在地:東大井1-20-10

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創建年代は不明。かつての御林猟師町の鎮守で、鮫頭明神、御林八幡とも呼ばれる。祭神は誉田別尊・気長足姫命・伊弉諾尊・伊弉冉尊。
御林浦・御林猟師町は南品川と浜川の間にあり、官林の雑木林を開発して造られたことが地名の由来。江戸時代、隣の品川浦とともに江戸城に鮮魚を納める「御菜肴八ヶ浦」のひとつとして発展した。本殿は昭和47年(1972)に再建されたもの。本殿の左手には弁天池があり、池の中の島には漁呉玉(なごたま)神社(水神社)、厳島神社、鮫祠がある。また林町にあった白山神社が昭和4年(1929)に合祀されている。本殿に向かって左側に、末社出世稲荷神社がある。
また、鮫洲八幡近くの勝島運河沿いには現在も釣り船屋が見られ往時の猟師町を偲ばせる。

​●鮫洲八幡神社石造物 所在地:東大井1-20-10(八幡神社内)

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鮫洲八幡神社の石造物 猟師町の鎮守として信仰されていた様子がうかがえるものが多い。

​●平林九兵衛翁遺徳碑 所在地:東大井1-20-10(八幡神社内)

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平林九兵衛翁遺徳碑は、昭和7年(1932)9月28日 品川用水大井内堀普通水利組合が建立した。
平林家は、大井村の鮫洲の海岸に数戸の土蔵を構え、数艘の船を持つ旧家であった。酒問屋であった「丸九」の息子として天保8年(1837)9月8日に生まれた。明治10年(1877)旱害を受けやすい大井村字篠谷耕地の水田に引水のため、私財を投じて品川用水大井分水の隧道工事を施工した。明治11年(1883)11月に大井村の戸長に選任され、明治16年(1883)7月5日)東京府会議員に当選したので、戸長を辞任した。明治25年~31年東京府第12区から衆議院議員に選出された。また明治22年(1889)から明治42年(1909)死去するまで七期続けて大井村村会議員も務めた。平林氏は終生公共事業に力を尽した。前述のように大井村字森の池沼を埋立てて篠谷に灌漑用水を引いたり、倉田、関ヶ原、林付の荒蕪地を水田に開拓したり、悪疫流行に際しては自費で所有地に隔離病舎を建てて貧困患者を救済し、小学校の改築を行なって教育を奨励し、私費三千円を投じて鈴ヶ森海岸約二町を埋立て新田を造成し、明治33年(1900)紫綬褒章を授与されている。 明治42年6月14日74歳で死去。大井町では町葬を行った。

​●鮫洲八幡神社境内神社の神社

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平林九兵衛翁遺徳碑は、昭和7年(1932)9月28日 品川用水大井内堀普通水利組合が建立した。
平林家は、大井村の鮫洲の海岸に数戸の土蔵を構え、数艘の船を持つ旧家であった。酒問屋であった「丸九」の息子として天保8年(1837)9月8日に生まれた。明治10年(1877)旱害を受けやすい大井村字篠谷耕地の水田に引水のため、私財を投じて品川用水大井分水の隧道工事を施工した。明治11年(1883)11月に大井村の戸長に選任され、明治16年(1883)7月5日)東京府会議員に当選したので、戸長を辞任した。明治25年~31年東京府第12区から衆議院議員に選出された。また明治22年(1889)から明治42年(1909)死去するまで七期続けて大井村村会議員も務めた。平林氏は終生公共事業に力を尽した。前述のように大井村字森の池沼を埋立てて篠谷に灌漑用水を引いたり、倉田、関ヶ原、林付の荒蕪地を水田に開拓したり、悪疫流行に際しては自費で所有地に隔離病舎を建てて貧困患者を救済し、小学校の改築を行なって教育を奨励し、私費三千円を投じて鈴ヶ森海岸約二町を埋立て新田を造成し、明治33年(1900)紫綬褒章を授与されている。 明治42年6月14日74歳で死去。大井町では町葬を行った。

18.白玉稲荷神社(御林町稲荷社)所在地:東大井2-9-15 鮫洲八幡計外社(旧御林町106番地)

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「大井町史」以降現在まで「白玉稲荷神社」と言われている稲荷社だが、「大井町名鑑」では「御林町稲荷社」、「大井町誌」では「稲荷神社」と記載されている。いずれも住所は同じであり、同一稲荷社である。現在鮫洲八幡神社が管理している。
「大井町史」では、 白玉稲荷神社は、御林町106番地にあり、元清傳寺現鮫浜小にあった曹洞宗・福田山清傳寺(明治7年廃寺)境内にあったものが、明治5年神仏混淆の禁令が発布せられると同時に、現在の所に移したもので、旧記に大井村七稲荷の一とある。無格社であって、祭神は宇迦之御魂命である。

19.青雲稲荷神社 所在地:東大井1-2-9鮫洲八幡境外社(旧林附195番地)

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現在、 鮫洲八幡神社所管であるが神仏分離以前は泊舩寺の所管であった。現在の場所は泊舩寺境外墓地の西側、鮫洲八幡神社の北側に位置している。 「大井町史」では 「瑞林稲荷神社」 、「大井町名鑑」では「林附稲荷社」、「大井町誌」では 単に「稲荷神社」と記載されている。 敷地南端の京急鮫洲駅東口前に稲荷神社駐車場があり、かつての境内はかなりの広さである。「大井町誌」には、「字林附195番地にある無格社にして由緒不明、宇迦乃御魂命を祀る」、とある。大井村七稲荷の一である。大正2年(境内整備記念に再建した石燈籠の表面に、「正徳三発巳(1713)」と刻してあるのによっても、歴史の古いものであると推察される。

20.海運稲荷神社(海運稲荷祠) 所在地:南大井1-19-6(旧南濱川1905番地)

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旧東海道に面し、7月20日現在、修復中で祠はなく基礎だけである。石造りの鳥居は大正7年2月28日に築造されたものである。力石が2個保管されている。境内の過半は、海運稲荷駐車場になっている。
「大井町史」359頁 海運稲荷祠は、字南濱川千九百五番地に在って、祭神は稲倉魂命である。明暦元年 ( 1655)三十軒町創設の際に、建立したもの。

21.火防稲荷神社 (稲荷神社・火防稲荷 大明神)所在地:東大井2-18-14(旧濱川1905番地)

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現在の掲額には稲荷神社の名しか刻まれていないが、「大井町史」では「 火防稲荷祠 」、「大井町名鑑」では「火防稲荷社」、「大井町誌」では「火防稲荷大明神」と記載されている。大正期までは縁日が行われていたようである。
「大井町誌」には、「日本体育会校門の前面通り中濱川1073番地に所在している。由緒不明。古老の言い伝えに、往昔濱〇(川の脱字?) の大飴屋と呼ぶ人が商売柄、火を扱うことから火防稲荷大明神を勧招したのだと言われている。持ち主は相原院次郎(遠院の違いか?)でこの付近の有志者が現在の地へ、地主の宅地内にあったものを移し、祭祀を行っているのである。毎月6日、18日例祭を催し縁日なども行われている。不思議に付近に火事がないという。」とある。

22.来福寺 所在地:品川区東大井3-13-1

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宗派は真言宗で、往古は長遠寺法系、京都仁和寺法系、明治38年から川崎大師平間寺法系。山号は、海賞山地蔵院。創建は、正暦元年(平安中期)で、創者は、智辯阿闍梨。
本尊は、大井1 丁目445の経塚(現在の庚申ビル内庚申堂)から掘り起こされた延命地蔵菩薩。
霊場:御府内八十八ヶ所二十六番札所、玉川八十八ヶ所七十四番札所、東海三十三観音二番札所
指定:品川区指定庭園、品川区名所百景
東京空襲で多くの建物が焼失したが、戦後再建された。鎌倉古道の近くにあり広大な寺領を有しており、江戸名所図会に取り上げられている。山門を入った左手に、貞享2年 (1685)に造立された庚申塔がある。
本堂の左右には松と桜が植えられている。松は鎌倉時代の檀信徒梶原一族の武将梶原景季に縁があると言われ「梶原の松」と呼ばれる。
地蔵尊信仰では桜を奉納する風習があり、江戸時代に桜(本尊にちなんで延命桜と言われた)の名所であったことを偲んで植えられている。最近では、檀信徒の他、東本願寺 第二十五代大谷暢顯(淨如)門首、小泉純一郎元総理、安倍晋三総理、石原慎太郎元都知事が奉納している。

​●聖天堂

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宗派は真言宗で、往古は長遠寺法系、京都仁和寺法系、明治38年から川崎大師平間寺法系。山号は、海賞山地蔵院。創建は、正暦元年(平安中期)で、創者は、智辯阿闍梨。
本尊は、大井1 丁目445の経塚(現在の庚申ビル内庚申堂)から掘り起こされた延命地蔵菩薩。
霊場:御府内八十八ヶ所二十六番札所、玉川八十八ヶ所七十四番札所、東海三十三観音二番札所
指定:品川区指定庭園、品川区名所百景
東京空襲で多くの建物が焼失したが、戦後再建された。鎌倉古道の近くにあり広大な寺領を有しており、江戸名所図会に取り上げられている。山門を入った左手に、貞享2年 (1685)に造立された庚申塔がある。
本堂の左右には松と桜が植えられている。松は鎌倉時代の檀信徒梶原一族の武将梶原景季に縁があると言われ「梶原の松」と呼ばれる。
地蔵尊信仰では桜を奉納する風習があり、江戸時代に桜(本尊にちなんで延命桜と言われた)の名所であったことを偲んで植えられている。最近では、檀信徒の他、東本願寺 第二十五代大谷暢顯(淨如)門首、小泉純一郎元総理、安倍晋三総理、石原慎太郎元都知事が奉納している。

​●雪中庵蓼太句碑

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本堂に向かって左手の自然石の句碑である。雪中庵(大島、本名は吉川 ) 蓼太の「世の中は三日見ぬ間に桜かな」という句が刻まれている。
大島蓼太( 1718-1787 )は、江戸時代の俳人で本姓は吉川、諱は陽喬、通称は平助、雅号は雪中庵、 里席、宜来、など多数存在する。与謝蕪村、加舎白雄などと共に中興五傑の一人といわれる 。
芭蕉への回帰を唱えてその研究と顕彰に努め、三千余人の門人を有した。また江戸座宗匠の旧態を批判し、一大勢力を築いた。この碑は天明7年蓼太の死後間もなく弟子たちが建立したもので、江戸名所図会の来福寺図版上部にも描かれている。元禄7年(1694)芭蕉が亡くなると、弟子たちは様々な流派に分裂し衰退していった。芭蕉没後50回忌を過ぎた天明期(1781-1789) に、俳諧を再度復興させようという運動が起こり、蕉風復活の中心的役割を果たした一人が大島蓼太で多くの門人を擁し、200冊以上の句集を編み、全国に名声を博した。

​●阿波藍承認墓標群

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この墓標群は、阿波商人として江戸に進出した大坂屋庄三郎、江戸での町人名で本名は久次米兵次郎家関係者のもの。大坂屋は日本橋八丁堀(現在の中央区八丁堀)に店を構え、藍のほかに材木も取り扱う大店になった。大坂屋の江戸での菩提寺が来福寺である。
3段に墓石を積み重ね、その上に地蔵像を安置しています。宝永年間(1704-1711) から明治まで約160年間に葬られた66基が合葬されている。墓標群は来福寺境内の地蔵堂墓域に建てられていましたが、第一京浜国道拡張工事のため、昭和2年(1927)に現在地に移され合葬墓となりました。近年、脇に地蔵彫供養碑が建立されている。阿波藍の江戸への進出と阿波商人と品川湊との関りを示す史跡。

​●林浄因(饅頭の創始者)之碑

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暦応4年(1341)、中国から龍山禅師に伴い来日した林浄因は、中国で肉や野菜を詰めて食べる中国の点心「饅頭マントウ」にヒントを得て、餡入り饅頭を考案した。不殺生戒により肉が食べられない僧侶のために小豆を煮詰め、蔓(つる)甘茶(あまちゃの)茎を煎じた甘葛煎(あまずらせん)と塩味を加えて餡をつくり、これを皮に包んで蒸し上げました。甘味が果実などの自然甘味に限られ、高価な甘葛煎(あまずらせん)や砂糖が薬用として珍重されていた時代に登場した甘い「奈良饅頭」は斬新で宮廷貴族や僧侶などに持てはやされた。碑には27店舗の「塩瀬」が記載されているが、現在、総本家以外は嬉野塩瀬だけが独立して営業し、他は廃業している。昭和55年(1980)2月から川島英子が第34代当主。「林浄因之碑」は檀家だった塩瀬総本家が発起人となり大正14年(1926) に建立されたものである。

23.阿弥陀堂(旧地蔵堂) 所在地:東大井1-22-14 来福寺境外

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来福寺は江戸名所図会にもみられるよう広大な境内を有していたが、かつての境内や境外にも各種の境、堂祠を有している。ここはその一つで、 「新編武蔵国風土記稿第三巻」によれば以前は濱川町にあったがここに移された3間四方の祠である。旧来福寺境外地蔵堂で現在は来福寺境外阿弥陀堂に改称されている。延命地蔵子育て地蔵 が祀られている。「延命子育て守り」が来福寺で無料配布されている。

24.大福生寺 所在地:東大井3-21-25

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宗派は、天台宗で東叡山寛永寺末寺。山号は、三宝山神護院。俗称は、土佐山聖天、大井聖天。創建は、明治14年(1881)日本橋蛎殻町に創建、明治26年(1893)2月現在地堂宇完成し移転した。
本尊:慈覚大師入唐将来 大聖歓喜天 五寸五分 、元牛込長安寺蔵 十二面観音像 三尺六寸八分
霊場:東海三十三ヶ所第十六番札所
旧土佐藩の下屋敷の一角、通称土佐山の見晴らし通りヘルマン坂筋にあり、寺の入り口には 西向に明神鳥居の笠木上に破風形合掌造りを載せた石造山王鳥居がある。鳥居を入り左手に南向で本堂、正面に護摩堂がある。左手奥には石造寶性地蔵菩薩など地蔵群、右手奥には福生稲荷が祀られている。聖観音、十二面観音以外にも薬師如来、愛染明王、四天王、鬼子母神、十六善神など複数の神仏信仰対象のある寺院である。

25.鶯亭金升歌碑 所在地:東大井3-21-25(大福生寺護摩堂の右側)

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大福生寺護摩堂の右側にある。鶯亭金升(1868-1954) 、本名長井総太郎は明治から昭和初期にかけて活躍した作家で最後の戯作者といわれる。歌碑は昭和3年(1928)に建立されたもので、「花は笑顔のおもてに咲いて月は心の裏に澄む」という金升の都々逸が刻石されている。なお、金升の墓所は、東五反田3- 6-17の本立寺にある。品川区内に三度住んでいる。団団珍聞(まるまるちんぶん)の主筆梅亭金鵞に師事して鶯亭金升の号を貰い、同門の小山内薫や後の二代目市川左団次らと、師を囲んで都々逸(情歌)を作り、都々逸に限らず、落語・川柳・狂歌・戲文・小唄など庶民の遊びの文芸、長唄・清元・常磐津を作った。
敗戦後の1947年、『落語珍日本』を出し、その後も都々逸・狂句・雑俳の選者を続けた。

26.磐井神社(鈴ヶ森の地名の元) 所在地:大田区大森北1-20-8

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平安時代後期に編纂された『日本三代実録』『延喜式』などにもその名の見える古い神社で、江戸時代の『江戸名所図会』には「鈴の森八幡宮」の名で記録されている。
磐井神社縁起によれば敏達天皇即位2年(573)に5祭神を祀ったのが始まりと見える。清和天皇の時代貞観元年(859) に全国六十六州総社八幡に定められたと『日本三代実録』に載っている。『延喜式』の「神名帳」に「式内社」として掲載されている。万葉集12で源為家が詠んだ「草陰の荒藺の崎の笠島を見つつか 君が山路越ゆらむ」は当時岬になっていた笠島を詠んだと言われる。現在境内にある 東海七福神巡りの 笠島弁財天の名はここに由来する 。
社内にある鈴石は、「鈴石のある社の森」に由来する鈴ヶ森の地名を伝える社宝。昭和30年9月発行「磐井神社縁起」には『 鈴石と称せられる宝物は。もと、神功皇后が御征韓の砌、長門国豊浦の海辺にて拾いし美石でありまして、これを叩くと快い鈴音を発します。聖武天皇の代、天平年間(731 より)に、石川朝臣年足という宮人が宇佐八幡宮の勅使として参拝した際、神告(おつげ)に因って子の霊石を授けられ、後に嫡孫中納言豊人卿が延暦7年、関東の国守に任ぜられた時、当社に奉納したと伝えられています。鈴石を鎮座させ、鈴森八幡宮を草創したと伝えられる』と記している。

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