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神社・仏閣等

アンカー 1

1.泊船寺 所在地:東大井4-5-2

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宗派は、臨済宗大徳寺派で、山号は林山泊舩寺(泊船寺)。創建は、永徳2年(1382)8月、大庵龍光を開山として北条氏が開創したと伝える。江戸時代の初期、1680年代に住職を務めた千巌宗億が、俳人松尾芭蕉と信仰が深く、境内に牛耕庵(泊舩堂、芭蕉堂)を建てて芭蕉を迎えたと伝えられる。文化年間(1804~18)には、俳人2世杜格斎山奴(白牛禅師)がこの寺に住んだことから、たびたび句会が開かれるなど、芭蕉を慕う多くの俳人が集まるようになった。

​●泊舩寺の彫刻と句碑

この古跡を因み泊舩堂と呼ばれる堂宇が建てられ、ここに芭蕉百回忌に石河積翆が刻したとされる松尾芭蕉の木造(現存)を安置したため、この庵を芭蕉堂と呼んでいた(現在、廃堂)。泊舩寺には木造白牛禅師坐像、松尾芭蕉坐像、服部嵐雪坐像、宝井其角坐像がある。

また、境内には「いかめしき音やあられの檜笠」「旅人と我名呼れんはつ時雨」の芭蕉句碑はじめ、山奴句碑「漁火に鳥の飛行霜夜哉」、谷口楼川(木犀庵)句碑「はせをの前に芭蕉なく芭蕉の後にはせをなし」など、芭蕉ゆかりの句碑が多い。いずれも江戸時代の後期、寛政から天保年間(1789~1844)の銘が記されている。

2.嶺雲寺 所在地:東大井2-15-10

江戸時代の初め、慶長9年(1604)の創建。開山は厳育和尚、中興は不聞伝和尚、当時の開基は吉田半左衛門(門の左に墓碑)、本尊は釈迦右手の閻魔堂(現、虚空堂)には、延宝8年(1680)の銘のある像高93㎝の石造閻魔王坐像と小型の石造脱衣婆像が安置されている。境内に虚空堂の左手に「北浜稲荷大明神」がある。山門を入って直ぐ左に、嶺雲寺開基墓碑(吉田半左衛門墓碑文)がある。

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2-1嶺雲寺旧東海道から本堂を望む.jpg

3.天祖諏訪神社 所在地:南大井1-4-1

天祖神社と諏訪神社は、古くは「神明社」「諏訪社」と称し、立会川をはさんで、それぞれに祀られていた。「神明社」は伊勢神宮を勧請し、「諏訪社」は信濃(長野県)の諏訪大社を勧請したもの。二社の氏子は共通であったため、昭和40年(1965)に、もと天祖神社のあった現在地に神明造りの社殿を建て、ここに合祀された。もとの諏訪神社の跡には、末社の稲荷社(仲町稲荷神社)が祀られている。東海七福神のうち、福禄寿を祀る。境内には、末社の厳島神社(祭神:市杵島姫命いちきしまひめのみこと)が本殿に向かって右にあり、本殿の左奥には南稲荷神社がある。

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4.仲町稲荷神社 所在地:東大井2-25-15

天祖神社と諏訪神社は、古くは「神明社」「諏訪社」と称し、立会川をはさんで、それぞれに祀られていた。「神明社」は伊勢神宮を勧請し、「諏訪社」は信濃(長野県)の諏訪大社を勧請したもの。二社の氏子は共通であったため、昭和40年(1965)に、もと天祖神社のあった現在地に神明造りの社殿を建て、ここに合祀された。もとの諏訪神社の跡には、末社の稲荷社(仲町稲荷神社)が祀られている。東海七福神のうち、福禄寿を祀る。境内には、末社の厳島神社(祭神:市杵島姫命いちきしまひめのみこと)が本殿に向かって右にあり、本殿の左奥には南稲荷神社がある。

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5.浜川神社 所在地:南大井2-4-8

浜川神社は、天明(1781~89)の頃、修験者・教光院了善が厄神大権現(やくじんだいごんげん)として祀ったことに始まる、了善は、天保期(1830~44)に将軍家の病気平癒を祈願し、効があったため江戸城大奥の信頼を得た。しかし、これが南町奉行鳥居甲斐守忠輝の忌諱するところとなり、将軍呪詛(じゅそ)の濡れ衣を着せられ、天保13年(1842)に遠島の刑(八丈島)に処せられた。忠輝失脚後の嘉永3年(1850)に許されたが、了善は既に死去していたため、嘉永5年に了善の孫が厄神大権現を再建した。明治維新後、神仏分離令により神社となって「浜川神社」と称した。
浜川神社文書は、近世から近代にいたる文書で、前身である厄神社(厄神大権現)および浜川神社に関する文書と証文で構成されている。保存状態もよく、大井地区の歴史だけでなく、江戸時代から近代に至る神社史を知る上での貴重な史料。区指定文化財。

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6.梶原稲荷神社 所在地:南大井3-9-15

この地には、鎌倉時代の武将梶原景時によって建てられた(1190年頃)といわれる万福寺があったが、元応2年(1320)の火災で寺の本堂が焼け、境内の稲荷社だけが焼け残ったと伝えられる。後に万福寺は馬込村(現、大田区南馬込1-48-2))に再建されたが、稲荷社はそのまま来福寺に属した。現在は梶原稲荷神社として独立し、地元の講中によって祀られている。社殿のうしろにある小高い場所は梶原塚と呼ばれ、梶原氏一門の古墳とも伝えられている。
昭和11年2月の改築中に、キツネのミイラと言われているミイラが洞の下から発見され保管されている。
昭和39年2月15日初午ノ日の日付の梶原稲荷講による奉納扁額「梶原稲荷祠由来記」に由来が書かれている。

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7.鈴ヶ森刑場跡 所在地:南大井2-5-6

鈴ヶ森刑場は江戸時代に小塚原(現、荒川区)とならぶ処刑場で、慶安4年(1651)に開設された。元禄8年(1695)の検地によると、間口40間(約74 メートル)奥行き8間(約16.2 メートル)の規模であった。現在は、文久2年(1862)に開かれた日蓮宗大経寺の境内である。当時、大井村一本松縄手にあり、品川御仕置場を俗に「一本松獄門場」と呼ばれていた。同地内には、処刑に使用されたといわれる台石、首洗いの井戸などが残されているほか、近代以降の様々な供養塔も建てられている。
ここで、最初に処刑されたのは、慶安4年(1651)の由井正雪の乱に加わった丸橋忠弥(?~1651)だといわれ、明治4年(1871)に廃止されるまでに処刑されたなかには、平井(白井)権八、天一坊、八百屋お七など歌舞伎や講談でお馴染みの人物も多い。


​●題目供養塔 所在地:南大井2-5-6大経寺内
題目供養塔 歌舞伎の舞台、「浮世柄比翼稲妻(うきよづかひよくのいなづま)」(鈴ヶ森)で有名な供養塔。高さ3メートル余りの石塔に筆太のひげ題目で「南無妙法蓮華経」と書かれ、裏面には「元禄11年(1698)」の年号とこの供養塔を建立した「法春比丘尼びくに」「谷口氏」の名が刻まれている。宝暦年間(1751~64)に書かれた随筆「江戸真砂まさご六十帖」によると、法春は本郷(現、文京区)の商人だった谷口与右衛門の母。「生類憐れみの令」のしかれていたころ、与右衛門が酒に酔って犬を切り、小塚原の刑場で処刑されたことを悲しんで、小塚原と鈴ヶ森の刑場に供養塔をたてたという。法春、あるいは谷口氏の一族とみられる人々の名を記した供養塔は、東海道沿いや京都・兵庫などに数多く見られ、品川ではほかに海徳寺(南品川1-2-10)にある。


​●大経寺と馬頭観音 所在地:南大井2-5-6
宗派は、日蓮宗、山号は鈴森山(れいしんざん)。創建は、文久2年(1862)で、開基は、大野貫蔵(大井村名主)。 鈴ヶ森刑場で処刑された処刑者の供養のために建てられた寺。境内に都指定旧跡となっている刑場跡がある。鈴ヶ森には受刑者たちの供養塔の他にも地元民や家畜の供養塔が集められている。
安政の大火で焼け死んだ馬たちの供養塔「馬頭観世音」に彫られている馬は、絵馬などで描かれている馬とは逆で左を向き、目を閉じている。
この他にも、「水難供養塔」「鯉塚」「無縁供養塔」などが立ち並ぶ。鈴ヶ森は地元の人たちにとってあらゆる死者を供養する神聖な場所といえよう

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8.旧陸奥国仙台藩伊達家下屋敷と仙台味噌 所在地:東大井4-1~4-3 ※現存しない

旧陸奥国仙台藩伊達家下屋敷 石高:65 万5千石 上屋敷:芝口浜屋敷(明暦の大火後)中屋敷:愛宕下(港区東新橋) 下屋敷:麻布下・高輪台・品川・大崎ほか
伊達家がこの地(大井村)に下屋敷を拝領したのは、万治元年(1658)5月のことで、拝領時の面積は 18,700坪余(幕府検地では15,800坪余)で、翌月に屋敷の建物を着工している。屋敷地には、物資の集積所として使われ、江戸時代後期には藩士に用い、あるいは販売用の味噌噌醸造施設が造られ「仙台味噌屋敷」とも呼ばれた。
五城寮は、仙台藩に縁のある地で、奨学金支給事業を行っていた「仙台育英会」(平成19年(2007)解散)が昭和26年(1951)から昭和59年(1984)まで、都有地を借り宮城県から東京に進学した学生のための寮(五城寮)を建てたことを記念し平成18年(2006)に建立された。

​●旧仙台坂仙台味噌醸造所

此処は江戸時代、仙台、伊達藩の江戸下屋敷であった。当時の江戸の味噌は江戸甘であり、東北武士の口に合わなかったため、伊達藩では備蓄食料確保の観点から寛永2年以来味噌蔵をもち、醸造を始めた。 江戸時代末期になると一般にも販売するようになり、半ば商売としての性格も持つようになった。江戸市民は仙台の殿様のお屋敷で出来る味噌というので、仙台味噌と呼ぶようになった。
味噌蔵は、その後明治35年7月法人組織とし八木合名会社仙台味噌醸造所が設立され今日に至っている。 看板メニューは、希少な国産大豆を使った仙台味噌「五風十雨(ごふうじゅうう)」である。木桶(添付写真)の中で1年以上熟成させる昔ながらの醸造法で、コクの深い味わいが特徴である 。

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9.仙台坂団地の品川区で一番大きなタブノキ 所在地:東大井4-3-1

旧仙台坂上手(東側)の仙台坂団地駐車場にある、タブノキ木は、高さは20メートルほど、周囲3.8メートル、直径1メートルの樹齢約300年と推定される巨樹である。
タブノキは、照葉樹林の代表的樹種のひとつで、各地の神社の「鎮守の森」によく大木として育っており、東京湾に近いため、此処以外にも区内に多数存在するが、大井6丁目「鹿島神社」と大井5丁目「滝王子稲荷神社」の木は区の天然記念物に指定されている。防風の機能を有する防風樹として知られるが、ここのタブノキは単立である。

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10.旧越前国鯖江藩間部家下屋敷 所在地:東大井4-8-4大井公園内 ※現存しない

旧越前国鯖江藩間部家は、石高:5万石で、上屋敷は常磐橋御門内(千代田区大手町二丁目)にあった。
もともとは、仙台藩伊達家が拝領した下屋敷であった。この屋敷内には高雄太夫の器を埋めたという塚があり、その上には一株の枝垂梅があったと伝えられている。元文2年(1737)に、鯖江版間部家大崎屋敷と伊達家品川屋敷の一部を交換し、間部家の下屋敷となったが、一部は再び伊達家の所有になった。

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11.旧薩摩国鹿児島藩島津家抱屋敷  所在地:東大井6丁目・大井4丁目


旧越前国鯖江藩間部家は、石高:5万石で、上屋敷は常磐橋御門内(千代田区大手町二丁目)にあった。
もともとは、仙台藩伊達家が拝領した下屋敷であった。この屋敷内には高雄太夫の器を埋めたという塚があり、その上には一株の枝垂梅があったと伝えられている。元文2年(1737)に、鯖江版間部家大崎屋敷と伊達家品川屋敷の一部を交換し、間部家の下屋敷となったが、一部は再び伊達家の所有になった。

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12.旧土佐高知藩山内家大井下屋敷 所在地:東大井3-18-4(現 品川区立浜川中学校)

安政の大獄の後に山内豊信(容堂)が蟄居していたのが「土佐高知藩山内家大井下屋敷」で、この地を拝領してから明治維新まで下屋敷があった。その広さは16800坪で東京ドームの約1.1倍である。第一京浜沿い・浜川中学校の校庭の片隅に品川区教育委員会が設置した「旧・土佐高知藩山内家下屋敷跡」の案内板には次の通り記されている。(一部補足)『立会川沿いの高知藩山内家の下屋敷1万6千8百坪余と抱屋敷(揚場869坪)は、東海道往還を挟んで東西に位置し、抱屋敷は立会川河口に位置していた。ともに万治元年(1658)に拝領、囲込によって取得したもので、表門通りで結ばれていた。下屋敷は大井村の他に、木挽町築地(現・中央区築地)にもあった。第15代藩主山内豊信(容堂)は、松平慶永、島津斉彬、伊達宗城らとともに、国政の方向について議論建策したので、「幕末の四賢候」と称されている。安政の大獄に関連して隠居・謹慎を命ぜられ、蟄居したのがこの下屋敷であった。
その後、明治37年(1904)日本体育会(現日体大)が本地に移転体育学校が創設され、昭和12年(1937)移転後、東京市大井高等小学校となり、戦後、品川区立浜川中学校となった。

 

​●映画監督 黒澤明 生誕地:東大井3-18-34現区立浜川中学校
日本の映画監督、脚本家。1910年(明治43年)、東京府荏原郡大井町(現在の東京都品川区東大井)の荏原中学校(現日体荏原高等学校)職員社宅で、父・勇と母・シマの4男4女の末っ子として生まれる。父・勇は陸軍戸山学校の第一期体操学生から同校の体操教官となり、後日本体育会(現在の日本体育大学)理事となり併設された荏原中学校の要職も歴任した。
ダイナミックな映像表現とヒューマニズムに徹した作風で、『羅生門』『生きる』『七人の侍』など 30本の監督作品を生み出し、アカデミー賞と世界三大映画祭(ヴェネツィア、カンヌ、ベルリン)で賞を得た。

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13.山内豊重(容堂)墓所 所在地:東大井4-8 立会小学校東側

安政の大獄の後に山内豊信(容堂)が蟄居していたのが「土佐高知藩山内家大井下屋敷」で、この地を拝領してから明治維新まで下屋敷があった。その広さは16800坪で東京ドームの約1.1倍である。第一京浜沿い・浜川中学校の校庭の片隅に品川区教育委員会が設置した「旧・土佐高知藩山内家下屋敷跡」の案内板には次の通り記されている。(一部補足)『立会川沿いの高知藩山内家の下屋敷1万6千8百坪余と抱屋敷(揚場869坪)は、東海道往還を挟んで東西に位置し、抱屋敷は立会川河口に位置していた。ともに万治元年(1658)に拝領、囲込によって取得したもので、表門通りで結ばれていた。下屋敷は大井村の他に、木挽町築地(現・中央区築地)にもあった。第15代藩主山内豊信(容堂)は、松平慶永、島津斉彬、伊達宗城らとともに、国政の方向について議論建策したので、「幕末の四賢候」と称されている。安政の大獄に関連して隠居・謹慎を命ぜられ、蟄居したのがこの下屋敷であった。
その後、明治37年(1904)日本体育会(現日体大)が本地に移転体育学校が創設され、昭和12年(1937)移転後、東京市大井高等小学校となり、戦後、品川区立浜川中学校となった。
◎ 映画監督  生誕地:東大井3-18-34現区立浜川中学校
日本の映画監督、脚本家。1910年(明治43年)、東京府荏原郡大井町(現在の東京都品川区東大井)の荏原中学校(現日体荏原高等学校)職員社宅で、父・勇と母・シマの4男4女の末っ子として生まれる。父・勇は陸軍戸山学校の第一期体操学生から同校の体操教官となり、後日本体育会(現在の日本体育大学)理事となり併設された荏原中学校の要職も歴任した。
ダイナミックな映像表現とヒューマニズムに徹した作風で、『羅生門』『生きる』『七人の侍』など 30本の監督作品を生み出し、アカデミー賞と世界三大映画祭(ヴェネツィア、カンヌ、ベルリン)で賞を得た。

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14.品川縣麦酒製造所 所在地:東大井3-18-3 ※明治9年まで存在

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安政5年(1858)に通商条約が締結され、翌年横浜港が開港されると多くの外国人が渡来し、居留地が設けられ、色々な外国産ビールが輸入され始めた。明4年(1871)、イギリスの麦酒醸造技W・コープランドが横浜山手天沼で硬水を発見、麦酒醸造所を建設したのが国産ビールの始まりとされている。これより先に日本人で醸造を目指す人がおり、品川・大井の地に日本初の国産麦酒製造所があった。これは、明治2年(1869)から明治4年(1871)の間に存在した品川縣の旧佐賀藩士古賀一平知事が窮民救済を掲げ大井村浜川町の旧土佐藩山内家下屋敷跡に建設した品川縣営ビール製造所である。しかし、工場着工後品川縣そのものが廃止になったため、実際に営業まで漕ぎつけたどうかは明らかでない。また、現在のようなビール瓶の遺物も発見されていない。これが幻の麦酒工場と言われる所以である。
現在、田沢湖ビールを運営する㈱わらび座が製造した「品川縣麦酒」(しながわけんビール)が地域限定で販売されている。

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