名のある橋と坂
27.立会川と立会川にかかる橋群 所在地:品川区南大井→目黒区碑文谷
立会川は、目黒区の碑文谷池や清水池のほか流域の湧水を合流して目黒区域と品川区域を流れ、東京湾の勝島運河に注ぐ総延長7.4kmの二級河川。
昭和20年代まで、フナやドジョウなどの淡水魚、ボラなどの汽水魚、ザリガニが棲む小川で子供たちの絶好の遊び場であった。昭和後期には、水量が減少した上、流域の工場廃水や生活廃水の放水により、水質が汚染され、平成8年(1996)度は生物化学的酸素要求量(BOD)が都内中小河川の中で最悪となった。JR東日本が、馬喰町駅~東京駅間の総武本線隧道内で湧き出る地下水の排水費用削減対策、立会川の水量増加と水質改善を兼ねて12kmの配水管が敷設し、平成14年(2002)7月から立会川への送水が始まると水質は大幅に改善された。
「立会川」名称の由来には、諸説あるが、定説は無い。
●浜川橋(泪橋) 所在地:東大井2-27・28 南大井1-4・5
旧東海道品川宿と鈴ヶ森刑場往還の間を流れる立会川に架けられた橋で俗称は涙橋泪橋とも記すという。立会川に架けられた橋の中で最も川下の橋である。最初の架橋は家康の入府後の 1600年頃と言われ、現在のコンクリート橋は昭和9年12月築造されたものである。浜川は立会川の河口付近を海の浜辺に注ぐ川として浜川と呼んだことが、新編武蔵風土記稿、南浦地名考に記されている。別称泪橋に関しては南浦地名考に記載がある。慶安2年に設けられた御仕置場 鈴ヶ森刑場で処刑される罪人が護送されるとき親族が密かにここまで見送り、この橋を最後に、涙で別れたのが語源といわれる。村松友視の小説「泪橋」の舞台で1983年映画化されている。
●弁天橋 所在地:東大井2-24・25東大井1-3・4
現在の天祖諏訪神社は昭和40年(1965)立会川をはさんで北の諏訪神社と南の天祖神社が合祀され天祖神社内に新造されたものである。旧天祖神社には小池があって池丘に厳島社 弁財天 が祀られていた。このことから北の旧諏訪神社と旧天祖神社裏を往還する橋を「弁天橋」と呼んだと思われる。
●立会川架橋「ボラちゃん橋」 所在地:東大井2-23・24 南大井1-2・3
現在の天祖諏訪神社は昭和40年(1965)立会川をはさんで北の諏訪神社と南の天祖神社が合祀され天祖神社内に新造されたものである。旧天祖神社には小池があって池丘に厳島社 弁財天 が祀られていた。このことから北の旧諏訪神社と旧天祖神社裏を往還する橋を「弁天橋」と呼んだと思われる。
●桜橋 東大井3-22・6-16 南大井4-1・5-2
立会川河口から数え5番目ボラちゃん橋を入れると 6番目の橋。東大井側の見晴通りと南大井川の桜新道に架かる橋。大正期に見晴通りと桜新道が整備された際に架橋され、桜新道に由来する名前と考えられる。
●月見橋 所在地:東大井6-14・15 東大井66-17 南大井5-2
古地図によると江戸時代、立会川の大井町駅周辺 から河口にかけて、上立会橋、中立会橋、下立会橋 、濱川橋の四橋が架かっていた。中世からの街道に沿って架けられたのが下立会橋であり、現在の「月見橋」である。現在上流は全て暗渠になっているが、JR総武線隧道湧水の最終放流点になっており上流側は暗渠、下流側が開渠となっている橋としての実態橋の起点である。昭和9年の品川区役所編「廰舎落成記念 区勢概要」の「品川区交通機関一覧図」の大井町駅から元芝方面行きの乗合自動車の停留所名に「月見台」が見えることから、この辺りは月見台と言われていたようである。旧名から改名する際この名を流用したと思われる。
28.大井の坂
●旧仙台坂(くらやみ坂)所在地:品川区東大井4・南品川5
江戸時代(1603 1867) に、この坂の中ほどから上にかけて仙台藩伊達陸奥守の下屋敷があったことから、東大井4丁目と南品川5丁目の間の坂は仙台坂と呼ばれていました。現在は青物横中に抜ける坂持が拡幅され交通量が増加し幹線になったのでそちらを一般的には仙台坂と呼ぶようになり、こちらは旧仙台坂と呼ばれるようになりました 。
●犬坂(へびだんだん)所在地:品川区東大井3-7・8・15
現在は階段が造られるなど舗装整備されているが、元は蛇のように曲がりくねった坂道であった。犬坂の由来は不明であるが俗称の「へびだんだん」はその曲がりくねった形から類推しそう呼ばれたと思われる。
●木の芽坂 所在地:品川区東大井3・東大井4
大井消防署から北へ向かい左折し、品川区立立会小学校南側に沿う坂である。名称の由来は不明であるが木々に囲まれた丘陵地を往復する直線の坂道だったと考えられる 。
●ヘルマン坂 所在地:品川区東大井3・東大井6
北側から見晴らし通り を歩き、 立会川桜橋に至る手前にある大福聖寺門前の坂である。西側にドイツ人商人のヘルマン・スプリット・ゲルベルト氏の住宅があったことから 俗称として用いられたと考えられる。